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「最強」とはなにか。日本人で初めてムエタイ王者になったキックの鉄人に聞いてみた 

タイではいまでも国賓級の扱い

 「練習は毎日十時間はやっていたね。ジムワーク後に血尿が出たことなんて、一度や二度じゃあなかったよ。休みも一切なかった。だから、試合の日が待ち遠しかったよ。だって、試合の日だけは練習しなくていいじゃない。午前中に計量をパスしたら、メシを食って試合まで寝てられる。こんなに嬉しいことない。毎日試合でもいいなって思ってたよ(笑)」

「最強」──読んで字の如く「最も強い」という意味である。そして、それに該当する人物を指す。

実際に最強を名乗る人物、もしくは、最強と認められる人物に会ったという話はなかなか聞かない。ところが彼らは、意外にも我々のすぐ近くにいる。彼らの多くは「最強」の称号を得たのち、過去の栄光に依拠せず、清廉な日々を過ごしているのだ。

最強と呼ばれた彼らに会い、波乱に満ちた日々と、その身の鍛錬の方法について訊き、世界で闘う方法を学ぶ――。それが本稿『最強さん、いらっしゃい』の目的である。その第一回目に向かえるのは、「キックの鉄人」藤原敏男。タイ人以外の外国人で初めてムエタイ王者となった男の人生を手繰る。

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──ということで、最強といえばこの方。「キックの鉄人」藤原敏男先生のところにお邪魔しました。
藤原 いやいや、全然最強じゃないよ。日々自身の弱さを実感する毎日で。

──何をおっしゃいますか。70年代を代表する日本最強のキックボクサー。初代全日本ライト級王者。そしてタイ人以外で初めてタイの国技、ムエタイの王者に輝いた正真正銘最強の男です。タイでは今でも国賓級の待遇で、空港に着くとレッドカーペットが敷かれて、藤原先生の到着を待つと聞いています。
藤原 並べたねえ(笑)。

──いやいや! だって藤原先生は「生ける伝説」ですからね。「藤原敏男伝説」には限りがありませんが、猛練習についてのエピソードは、いまだに格闘技界で語り継がれていますよね。一日10時間の練習を欠かさなかったと聞いています。
藤原 まあ、猛練習っていうと、「やらされてたんですか」なんて訊いてくる人も多いんだけど、やらされていたんじゃなくて「これをやらないと俺は駄目だ」っていう気持ちがあったんだよね。

──その気持ちはどこから来ていたんですか? 藤原 単に「強くなりたい」っていう純粋な気持ち。っていうのも、俺はデビュー戦は運良く2RKO勝ちっていう幸先のいいスタートを切ったわけ。でも、2戦目でタイ人と当てられて、14回もダウン奪われて無残な判定負け。

──14回!
藤原 で、3戦目もタイ人ぶつけられて、このときなんか17回もダウン奪われた。

──いまでは考えられませんね……死んでもおかしくないレベルです。
藤原 それが本当に悔しくてさあ。「なんとかしてタイ人に勝ちたい」って思ったんだ。とすると強くなるしかないわけだから、自然と猛練習になるんだよ。先輩に大沢昇さん(極真空手出身。黎明期からの伝説のキックボクサー)がいて、大沢先輩が一日5~6時間練習やるって聞いて「俺も負けてらんねえな」と思って、10時間を目標にしてさ。

――うわぁ……。
藤原 「とにかくスタミナをつけよう」ってまず思ったんだ。キックボクシングは5Rだけど、10Rやっても切れないスタミナをつけようと。ロードワークも、ただ走るだけじゃなくて、ダッシュを何回か入れてたりとか強弱つけて何時間も走ったんだ。それにジムでも休憩なしで次々にメニューを課したり、3時間ぶっ続けたりとか。

──気が遠くなりますね。
藤原 あと、ちょっとやそっとじゃ壊れない身体の強さを手に入れたいと思った。だから、もし足を蹴られても、蹴った相手が痛がるような体にしようと。

──凄い発想ですね(笑)。
藤原 脛を硬くしようと思って、まずタイヤを蹴った。それが平気になったら今度は鉄柱蹴って。そしたら鋼鉄みたいになって(笑)。これは引退してからの話だけど、K―1のピーター・アーツが、俺がやっていた道場にテレビの取材で来たことがあってさ。あいつが「フジワラ、お前はどんな練習をしていたんだ」とか訊いてくるから、鉄柱蹴ってるところを見せてやったんだ。そしたら「オー、クレイジー」(笑)。

親父は町一番の暴れん坊

 藤原 あのね。首から下って鍛えれば鍛えるほど強くなるの。で、首から上って、殴られたら殴られただけ弱くなるんだよ。俺、殴られるの大嫌いなんだよ。女にビンタされるのも嫌で(笑)。ボクシングの試合とか見ていて、顔が変形する試合とかあるじゃない。あれは絶対嫌だなとずっと思っていたの。だから、足は徹底的に鍛えたけど、顔だけは絶対に打たれまいと、フットワークは変則なものにしてみたんだ。

──独特な動きですもんね。
藤原 あれはね、数字の8を横にして(∞)それを頭でなぞって書いているの。そうすると出たり入ったりするでしょう。相手が目標を定められなくなるんだよ。だからパンチが当てられない。

──オフェンスとディフェンス、両方とも凝っていますね。
藤原 根が凝り性だから、徹底的に追求しないと気が済まないのよ。だから10時間もかかるのは当然とはいえば当然。

──なるほど……まあ、今日は「最強・藤原敏男の世界」ということで、昔の話も聞いてみたいんですが、子供の頃はやっぱりガキ大将だったんですか? 藤原 全然。喧嘩なんか一度もしたことがなくて。

──ホントですか! キックボクシングを始める前の格闘技の経験は? 藤原 これも全然ない。人を殴ったこともなければ格闘するなんて全く縁がない。出身は岩手県宮古市。炭鉱の町でさ。炭鉱夫だった親父は町一番の暴れん坊だったんだよ。でも俺は一度も殴られたことがなかったの。スポーツも小中学校は卓球で高校はテニス。

──イメージと離れますね(笑)。
藤原 でもどっちも、その後の格闘技に随分役立ったと思う。なんといってもステップと俊敏さが身についたからね。あと、親父が狩猟をやっていてさ。

──あ、お父さんにくっついて見ていたと。
藤原 いや、俺も撃ってたよ(笑)。

──ええ!
藤原 毎年11月15日が、忘れもしない狩猟の解禁日。そこから親父と一緒に猟に出かけるんだけど、あるとき『撃ってみろ』っていきなり銃を渡されて。重かったよ。小学校一年だったから(笑)。

──そんな頃からですか(笑)。
藤原 「なあ敏男、雉というのは、動きが素早くて……」って一応指南はされるんだけど、でも結局は自分の感覚が頼みなんだよ。それで瞬間を見計らって「それっ」「ズドーン」って。あの経験で動体視力が確実に養われたと思う。でも将来の猟師になりたいとか全然思ったことない。設計士になりたかった。「世界一の設計士になろう」と。

──その都度意外ですね。
藤原 それで高校の頃、親父に「設計士になりたいから大学に行きたい」って言ったら「悪いけどウチには大学に行かせる余裕がない」って言われてさ。それで高校を卒業して、まず大阪に行ったんだ。

女じゃなくて鬼がいた

 ──最初は大阪ですか。
藤原 70年に大阪万博があったでしょ。その数年前から、万博会場の周辺で、橋を造ったり道路を整備したりっていう現場仕事の需要が結構あったんだ。つまり出稼ぎだな。そうやって飯場生活しながら、学費を稼いだりしてた。

──それで学費を稼いで、東京に出てきた、と。
藤原 そう。二十歳のときに王子の中央工学校、ここは田中角栄が出て一時期は校長先生もやっていたという学校なんだけど、そこの夜学に入学して設計士の勉強を始めるわけ。朝と昼間は牛乳配達のバイト、それで学費と生活費を稼いでたの。

──では、キックボクシングとの出会いはどういういきさつで? 藤原 最初の出会いはやっぱりテレビなんだよ。大阪の飯場生活のときに、たまたま6チャンネル、TBSのキックボクシング中継を見たんだ。そこで見たのが沢村忠さんだよ!

──「真空飛び膝蹴り」の沢村ですね!
藤原 沢村さんを見て「カッコイイ!」と。世の中にこんなカッコイイものがあるのかと。それで毎週見るようになって。でも、自分もやろうとは全然思わなかった。俺にこれをやる勇気はないと思ったんだ。だってそれまで喧嘩すらもやったことがないんだからね。でも、とにかく画面の中の沢村さんは眩しい存在だった。その印象だけが残ったんだよ

──ちなみに、その後沢村さんとお会いしたことはあるんですか? 藤原 何度かあるんだよ。一番最近では数年前にゴルフのコンペで御一緒して。打ち上げの席で「先輩、どうぞ」ってビールを注ぎに行ってさ。「あ、藤原君か」って。沢村さんって今も爽やかなスポーツマンなんだよ。いいよねえ。

──では、キックをやるようになったきっかけはなんですか? 藤原 東京生活が始まるでしょ。学校に通いながら、朝と昼は牛乳配達の毎日だけど、配達経路の中にキックボクシングのジムがあったんだ。それが目白ジム。「あ、キックのジムだ」って思ってさ。当時キックボクシングは大人気だったからさ、多分若い女の子とかいるだろうと思ったんだよ(笑)。

──女の子(笑)。
藤原「せっかく東京に出て来たんだから、女の子と仲良くしたいなあ」って思うじゃない。それである日の昼間、一度見学してみようと思ったの。ジムのドアを開けて「ごめんください」……そしたら誰もいない。がらんとしていて「おっかしいな、女の子いないなあ」と思って(笑)。

──女しか見えてないんですね(笑)。
藤原 そしたら「何だ!」って言うからふと見たら、「わ、鬼がいる」って(笑)。

──女じゃなくて鬼が(笑)。
藤原 本当に鬼だよ! それがウチの先生だったんだよ。師匠の黒崎健時。

──おお! 極真空手大山倍達の一番弟子にして、ムエタイとの他流試合をへてキックボクシング目白ジム会長。「鬼の黒崎」と畏怖された黒崎健時ですね。
藤原 オランダに「オランダ目白ジム」ってあるでしょう。あれはオランダ人のヤン・プラスが目白ジムに修業に来ていて、それで「暖簾分け」みたいな感じでオランダにジムを作ったんだ。だから先生がオランダにキックボクシングを広めたようなものだから。

──そうなりますね。
藤原 つまりね、先生がいなかったらK―1はないんだよ。だって、ピーター・アーツとか、ブランコ・シカティック、アーネスト・ホーストと、当初のK-1はオランダのキックボクサーばかりだったじゃない。彼らがいなかったら成功していないわけだから。

突然のデビューを告げられ…

 ──その鬼の黒崎にいきなり対面したわけですね。
藤原 「お前何の用だ?」って言うから「キックをテレビで見て……」「だから何だ?」「入門したいんですけど」って言ったら、「じゃあ入門書を書け」って。

──早いですね(笑)。
藤原 俺だってとりあえずは見学するつもりだったんだよ。どんな感じか見てみたかったし。

──女の子と出会という目的もありますしね(笑)。
藤原 でもなんか金縛りみたいになって動けなくてさ。「入門書書きました」って言ったら「ほい、じゃあ金」って(笑)。

──いきなりですか(笑)。
藤原 入会金が1万円で月謝が9千円、合計1万9千円。当時にしては結構高いんだよ(笑)。

──で、そこから入門ですか? 藤原 入門っていってもなんにもわからないからさ。「どうしたらいいんですか?」って訊いたら「好きにしろ」って。

──すげないですね(笑)。
藤原 「サンドバッグとか色々あるんだから自分で好きに使え」って先生は言うの。それでいつ練習に行っても平日の昼間は誰もいないんだ。全然フィットネスジムと違った(笑)。

──先生はいなかったんですか? 藤原 先生はいるんだよ。でも新聞とか読んでてさ、「教えて下さい」って頼むんだけど「好きにしろ」って言うだけ。でもさ、俺も経験があるわけじゃないから、全然練習にならないのよ。

──だって初心者ですもんね。
藤原 今さ、わりとサラリーマンの人でも格闘技のジムとか通ったりしているじゃない。OLさんとか。あれだって、トレーナーとかが、なんとか飽きさせないように、あれやこれや工夫してやるわけでしょう。「上手くなりましたねー」とか積極的に声をかけたり、ミット持ってやったり、ゲーム的なことをやらせたりとか。

──そうですね。
藤原 夢中になって通わせないと商売にならないんだから。それなのに先生はなーんにもしないで新聞読んでる。「つまんないなあ」って。俺は夜学に通っていたから、昼間しか通えない。だから「夜はどんな感じなんだろう」って気にはなっていて、一度学校を休んで覗いてみたんだ。そしたら同じ年代の若い人がいっぱいいて、昼間と違って活気があった。

──みんな昼間は働いていたんですね。
藤原 それで彼らにまじって練習をしたら、これがまた楽しくてさあ。夜は学校があるんだけど、やっぱりみんなと一緒に練習したいじゃない。強くなりたいし、いろんな技も覚えたい。そう思ってね、ちょいちょい学校を休むようになったの。そしたら、一カ月くらいした頃に先生が「お前、試合やってみっか」っていきなり言うわけ(笑)。

──早いなあ!

2試合で計31回のダウン

 藤原 ちょいちょい夜の練習にも行くようになったとはいえ、それも時々だし、技も何も教わってはいないんだけどさ。でも、せっかく先生がそう言うんだからって思ってやってみることにしたの。

──勇気ある!
藤原 そのときに、自分の中で誓いを立てたんだ。「とりあえず3戦やってみよう」と。3戦やって1勝2敗と負け越したらこれは才能がないってことだから、すっぱりあきらめようと。そしたらデビュー戦、2RKOで勝っちゃうんだよ。

──ちなみに相手は赤坂ジムの坂井田さんって選手ですね。
藤原 何も教わってなかったけど、とりあえずは倒せた。そしたらさっき言ったように、2戦目と3戦目、タイ人と組まれてボロ負けしちゃうんだよ。

──14回のダウンと、17回のダウンですからね。
藤原 当時はフリーノックダウンだから、何度倒されても、立ちあがったら試合続行よ。

──今なら1ラウンド3度のダウンでTKO負けですよ。
藤原 14回ダウンで負けた試合の直後に先生が「次の試合も決めたから」って(笑)。

──次々に決めるんですね(笑)。
藤原 そしたら試合は一カ月後。相手はまたタイ人。今度は17回も倒されて。でもさ、倒されても倒されても、無意識に起き上がってたんだよ。

──痛いとか怖いとかは? 藤原 そんな感覚もないの。「倒されたから立たなきゃ」でもない。本当に無意識にぴょこんと起き上がっていた。あれを本能っていうんだろうな。

──うわあ……。
藤原 俺の試合を見て「この藤原って奴は面白い」って先生は思ったらしい。それで気に入ったって後から聞いた。ただ、タイ人が恐ろしそうな顔で俺を見たのは憶えている(笑)。

──タイ人がドン引きしたんですね(笑)。
藤原 試合が終わったら即入院。本郷の東大病院に担ぎ込まれたの。

──さすがにそうなりますよ。ただ気になるのは、この試練の3戦は1勝2敗で負け越してますよね。ということは、辞めようと思ったんですか? 藤原 それが逆。とにかく悔しくて。だって、いくら相手が子供の頃からやっている歴戦のムエタイの選手でも、同じくらいの年齢で同じ体重なんだよ。これが大鵬みたいな巨漢の力士と戦ったわけじゃない。体格の差があればそんなに悔しくなかったろうよ。

──確かに。
藤原 でもさ、いくらキャリアが違うとはいっても、こんな屈辱ないなあって。だから東大病院のベッドでずっと悔しがってた。早く練習してえなと。

「強くなる」それだけを考えていた

 ──女の子を目当てでジムに入った人とは思えないですね(笑)。
藤原 だから練習に専念しようと退院してすぐ牛乳配達の仕事を辞めた。牛乳屋の寮も出た。それで先生に「目白ジムの内弟子にして下さい」って頼んで寮生になったわけ。

──キック漬けの毎日を選んだと。しかし、そこまでの闘争本能が自分にあるとは……。
藤原 思わなかった。あれだけ倒されたことで芽生えたともいえるし、練習の時スパーリングとかするでしょう。そのとき既に芽生えていたともいえるかな。

──わかんないもんですね、どこで気付くか。
藤原 本当だよ。だから、これを読んでいるビジネスマンの人も、実は凄い才能が隠れているかもしれないんだよ。

──で、設計士の学校はどうしたんですか? 藤原 とりあえず続けたんだ。だから相変わらず誰もいないジムでの昼間の稽古は続けていたんだけど、それまでとは全然違う景色に見えたよ。

──どういうことですか? 藤原 目標があるじゃない。「強くなる」「タイ人をぶっ倒す」という。となると、ジムに人がいようがいまいが関係ないわけ。誰もいないジムならではの練習もできるわけでしょう。サンドバックを好きに殴れるわけだし。ただ殴るだけじゃなくて、いろいろ考えながら殴ったりとか蹴ったりとか。

──目標ができればそうなりますね。
藤原 もちろん夜の練習も行ったよ。でも、昼間は昼間でやれることは山ほどあるんだと。だからそう思うとね、なんの世界でも「環境が悪い」とかなんとか、すぐぶうたれる人って……自分自身が目標持つとか、希望も持つとかすれば、その環境はいくらでも変わるんじゃないかな。そういうものがあるだけでも全然違うと思うなあ。

──耳が痛いです。藤原先生の場合は、学校も続けたんですからね。
藤原 ま、学校の方は途中でやめちゃうんだけど(笑)。とりあえず一年半は通い続けたんだよ。でも、卒業まで残り半年ってとこで、ちょうど「全日本キックボクシング協会」って統一ランキングができて。

──つまり、12チャンネル(東京12チャンネル。現在のテレビ東京)の岡村プロモーションと、4チャンネル(日本テレビ)の協同プロモーションが合体したやつですね。
藤原 それで石原慎太郎さんがコミッショナーに就任してさ、「打倒6チャンネル」って発破をかけたりもして結構盛り上がった。だからその時期は、合宿だの取材だのなんだのって忙しくてさあ。

──6チャンネルのTBSはかつて憧れた沢村忠さんがエース。で、全日本キックのエースは藤原敏男ですもんね。
藤原 その頃の俺は、とりあえずは一端の存在にはなっていたから。だからそのときに学校はやめたの。

──逆にいえば、その時点まで学校に通い続けていたってのが凄いです。
藤原 やっぱり設計とか大好きなんだよ。今も好きでね、設計図とか見るとワクワクしちゃうもん(笑)。

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